作家とは、言葉を自由自在に扱う言葉の魔術師ざます。


特に、久世光彦や向田邦子などのテレビ業界出身の作家連は、言葉遣いに実に鋭敏。

限られた時間枠の中で、いかに凝縮された言葉で表現すべきかを熟知していたからに違いないけれど、こういう職業の人たちは、言葉を読ませるのではなく、言葉を見せる商売ですから。
昭和の「叩き上げ」、そんな言葉が似合うお二人も、もう鬼籍に入ってしまった。

この本を読むと、いかに多くの言葉が月日と共にフェードアウトしていったかがよくわかる。

古い言葉や表現のほうが良かったと嘆くのは、どんな時代でも、<お年寄りの主張>なのだけれど、置き換える言葉が見つからないまま消えていってしまうのは、人間の感性や感覚も共に消えていくような不安にも繋がるのではないかしら。

<要はそれを見た人が、『恥ずかしそうに』という言葉で感じるか、『きまり悪そうに』感じるかなのだ。
感じるときに、まず言葉は選ばれる。
次に、それを人に伝えるときに、もう一度選ばれる。
えてして私たちは、言葉というものを伝達のためだけのものと考えがちだが、実は多くの場合、言葉で感じているものなのだ。>

そういえば最近、「恥ずい~!」という感覚はあっても、そんなことを言ったことに対しては「きまり悪い」とは感じてない様子だし。(笑) 言葉ってそんなもの。
「恥ずい~!」を恥ずかしいとも思わず連呼している若者たちも、50年後には、「今どきの若けえもんは、「恥ずい」って言葉も知らねえんだぜ!まったく情けねえなあ」と嘆くに決まってる!(笑)

<(中略)そうやって平気で、コーラの缶みたいに言葉を道端に捨てたり、当用漢字を減らしたりしていると、そのうちにこの国の人たちは、みんなおなじ言葉でものを感じ、同じ言葉でしかそれを表現できなくなる―――これは恐ろしいことである。>

ノスタルジーの意味も込めて、やはり失われゆくものへの愛着と焦りは消えない。

でもね。言葉というものは何千年も何万年もこうやって変化をとげて進化してきたのだと思うのですわ。


なにはともあれ、(←こんな言葉も口に出しては言わなくなりましたよねえ^^;)

ひとつの言葉が死んでも、また新しい言葉が生まれてくる。

それとも、新しい言葉(=感性)が生まれたから、古い言葉(=感性)が消えちゃったのか。
そうやって言葉はどんどんふるいにかけられ淘汰されていく運命なのざます。
そして生き残った言葉たちが洗練されているかどうかは別として。。。


そもそも話し言葉なんてのは、いかに簡単にてっとり早くわかりやすく相手に伝えるかが重要なのだから。久世さんのおっしゃる通り、言葉は感じるものでもあるけれど、言葉は目に見えるものだとも思うのざます。(そういや、今どき、ざあます言葉を使うおばちゃん達もいなくなりましたわねえざます^^;)







ニホンゴキトク (講談社文庫)
久世 光彦
4062645734





編集後記

今月はお仏蘭西三昧だったり、FBIも顔負けの科学捜査にたいするレポートを書いたり、かと思うと、こてこての昭和時代にぼ~っと没頭したり、世界を股にかけて(勝手に)忙しいぐたさんざます!
さあてと、今度はどこへ行こうかな♪